そこに意図はあったのか
自宅から小学校までの通学路にはパチンコ店があった。
そこまで大きな店ではない。自分が中に入ったことがあるのは2回だけで通学中にトイレを借りた時と、裏手の駐車場の資材置き場のような場所で遊び、親と一緒に謝りに行った時だけである。
ただ今回はその話ではない。
そのパチンコ店の問題は外観にあった。具体的には自動ドアである。
自動ドアには「パチンコ」と大きな文字で書いてあった。
この文字は外から見て右側の自動ドアから始まっており、横のガラス窓に続くようになっていた。
簡単に言うとドアが開くたびに「パ」が消える仕様になっていた。
開店から約1年が経ち、その自動ドアは開かなくなり、横にある別のドアからしか入れないようになった。苦情が入ったことは明らかだった。
中学生の時にその店は潰れ、おそらく今も空きテナントになっている。残念ながら自動ドアの文言も消えてしまった。
店主は開店前から気づいていたのではないかと私は思っている。
ささやかで最低な遊び心をもって私たち子どもたちを楽しませてくれたと信じたい。
クリスマスイブに投稿する内容ではないなと思います。
社会科土下座見学、移動土下座教室
人生で初めて土下座をみたのは小学校三年生、人生で初めて土下座をしたのは小学校六年生の時である。
小学三年生の時、社会科見学でお台場まで行った。
科学技術館をみんなで見た後、観光船に乗ってお台場近辺を周遊するという流れだったと思う。
科学技術館を巡り、昼食を済ませ観光船の船着き場に到着すると、係の人と先生たちがなにやら言い争いをしていた。
話を遠くで聞いているとどうやら向こうの手違いで上手く予約が取れていなかったらしい。このままでは100人近い生徒たちは船に乗れないようだった。
とにかく激怒していたうちのクラスの担任は
「とにかく子供たちに謝ってください!!」
と若い男性の係の方に詰め寄っていた。
その後班ごとに体育座りをして空いたスペースに待機している僕らの前に彼はやってきた。すでに半泣きだった。
彼は僕らの前に膝をつき自分の誤りで船に乗れないことを頭を下げて謝った。
正確には土下座とまではいかないのかもしれないが、おそらく今の自分と同じくらいの年齢の男性が、たかだか10歳の子供に膝をつき頭を下げるというのは、非常に苦しい行動だったと思う。ミスをしたとはいえよくやったよ君は。
当時も翌日に友達と「あそこまでしなくてもいいよな」と話し合うほど僕らはそれをされて困惑していた。正直引いていたのである。今思い出しても先生、そこまでさせる必要はなかったですよ。されて困るのは生徒です。
その後どんな不思議な力が働いたのかは知る由もないが、僕らはほかの小学校の生徒たちと相乗りで船に乗ることができた。
その日は雨が止むことはなかった。
時は経ち、小学六年生。移動教室で私たちは日光に来ていた。
クラスの男子は2つに部屋を分けられており、夕食をみんなで食べお風呂に入った後、少しずつ寝る準備を始めるところだった。
当然のことだがみんなではしゃぐ。枕投げをしている途中で先生が急に私たちの部屋に入ってきて私たちを大声で叱った。
その時入口付近におり、幸いにして先生の目を逃れた私はこれは好機と思い、そっと部屋を抜け出した。
そして少し離れた部屋に行きトランプを楽しんだ。
ひとしきり遊び終えて部屋に戻ると、クラスの男子はとにかく怒っていた。一人説教を逃れて遊んでいたのだから当然であろう。確かに悪いなとは自分でも思った。
怒りの収まらないそのうちの一人から土下座をしろと言われ、私は人生で初めて土下座をした。しっかり畳におでこをつけた。
あの時の屈辱は今でも忘れられない。そして社会科見学での彼の気持ちが痛いほどわかった。
土下座というのは自分のプライドの全てを捨てる行動である。
私は社会人になり、半沢直樹に触発され銀行員の営業として働いたこともあったが、もちろんそれ以来土下座をしたことも、されたこともない。
ただ平謝りをするだけである。
博士の愛した数式
先ほど読み終わった。いいお話だった。
事故で記憶が80分しかもたない元数学教授の「博士」と、そこに来る家政婦の「私」と、その子供「√」のお話である。
物語の後半に√の誕生日と博士の数学雑誌での賞を家でお祝いする場面がある。
√の11歳の誕生日で、11歳というと一見中途半端な数字であるが、博士にとってそれは美しい素数の内の一つなのだ。博士の話を聞くと一見何でもないような数字が非常に価値のあるものに感じられる。こんなシーンが小説の中にはいくつもある。
読んで思ったのは、考え方とか視点によって物事に意味や価値をもたせることができるということ。
自分は来年28歳だ。28は完全数といって約数の合計が28になる美しい数字らしい。
その来年の29歳は10番目の素数だ。
そう考えると悪くないなと思えてきた。
七五三は全ての数字が素数だなーとか思っていると一つ考えが浮かんだ。
自分や子供の誕生日が素数の時はいつもより盛大に祝う「素数バースデー」があってもいいのではないかと。
「素数バースデー」は大人になるにつれて頻度が少なくなってくる。タイミングに規則性もない。大人のみなさん、自分の「素数バースデー」が次はいつ到来するかを考えてみるのはいかがでしょうか。
こういう些細なことを文章に残しておけること、あわよくば誰かが見てくれるのはブログの良さだなと思う。
私の素数バースデーは2年後だ。多分この話は完全に忘れているだろう。
特定外来生物ロブスター
小学3年生の時の話だ。
友人と書道の習い事が終わった後に裏山に遊びに行った。
ひょうたん池と呼ばれる小さな池があり、ザリガニをとることにした。
一度網ですくうとザリガニが5,6匹は入っており、その日は全部で50匹くらい捕まえた。
その中に一匹だけ群を抜いて大きなアメリカザリガニがいた。
その大きさのあまり、自宅に持ち帰り母親の携帯で写真を撮ったのを覚えている。
当時自分が履いていた上履き(多分20センチくらいだと思う)と並べて写真を撮ったといえばなんとなく大きさを想像してもらえるだろうか。
その大きさは私に伊勢海老を思わせ(今思うと全くそこには匹敵しないが)彼のことをロブスターと呼んでいた。
彼を自宅の水槽で飼っていて私たち家族は思った。
ここはこいつが暮らすには狭すぎると。私もこれには同意見で、逃がしてやることにした。
しかし当時こいつを捕獲したひょうたん池は時期によって水を抜くことがあり、彼が今後の生活を送るにはいささか不安であった。
そこで小学校のグラウンド横にあった田んぼの用水路に彼を放した。
私は思った。達者に暮らしてくれ。
そこからしばらく過ぎて、休み時間の終わりにクラスの同級生が小さな水槽を教室に持ち込んできた。(なんとなくお分かりだと思う)
そこには彼がいた。ロブスターである。あの大きさ。間違いない。
クラスメイトに囲まれて一躍人気者になっていた。
思うところはあったが、私が何か言う権利もなく黙っていたのを覚えている。今思うと大人な対応だったなと思う。
彼が最終的にどうなったのかを私は知らない。
そのまま狭い水槽で子供の純粋な残酷さにやられてしまったのだろうか。
今思い返すと、それはジュラシックパークやキングコングの様だなと思った(どちらの映画もきちんと観たことはない。完全に想像である。)
こっそり放課後にでも彼を持ち出し、自然に返してあげることができたなら私は映画の主人公であったが、クラスメイトからのバッシングを考えるとそれを行動に起こすことはできなかった。
この話にはオチはない。
アメリカザリガニは近年特定外来生物に指定され、2023年から規制が始まる可能性があるらしい。規制されると他の特定外来生物のように生きたまま持ち帰ったり、ほかの地域に放流することは禁止される。
そんな話を聞いて彼のことを思い出しただけである。
本棚
部屋には本棚がある。
今年引っ越しをしたときに新たに買いなおすことになった。
以前の家には冷蔵庫を置くスペースを利用して大きな本棚があったのだが、これが引っ越しの際に問題となった。
引っ越し業者が今の部屋に本棚を運ぼうとした際、大きすぎて階段を通ることができなかったのである。業者からは解体して自分で運ぶか有料で引き取るかを迫られ、泣く泣く引き取りを選んだのである。
故にやや小さく、ニトリの複数の棚を組み合わせ次の引っ越しに備えている私の本棚であるが、それなりに今までに読んだ本たちが並んでいる。
現在は6個に区切られており、例えば左上の棚には資格や勉強関係の本が、その下の棚には村上春樹の小説が、右上の棚には外国小説のスペースがあるなど、自分なりに考えて配置をしているわけだが、
本当にこの配置で良いのであろうか?私は考えた。
私の父は元々は国語の教師であったことから、家にはやはり本棚があった。
小さいときはそこから本を取るなんてことはあまりなかったが、それでも親がいないときにはそこに置いてあった本やら漫画やらのタイトルを眺めたり、実際に中身を見てみることはたまにあった。
正直子供が読めるものはそこまで多くなかったが、私は父親の本棚に「完全自殺マニュアル」というおよそ小学生が読むべきではないマニュアルが置かれていたのを今でも鮮明に覚えている。
今調べるとそこそこ売れた本らしいが、苦情も多かったらしい(気になる方は勝手に調べていただきたいが、決して何かを助長しているわけではない)
私の本棚はどうだろうか?幸い自殺のマニュアルもなければ殺人の教則本もないが、小学生の子供にいきなり村上春樹の文章を読まれたりするのは避けたいものである。今ある本ならせめて星新一とかハリーポッターとかを読んでほしい。
映画に表示があって、小説に表示がないのは対象年齢だろう。どんな年齢の人がどんな本を読むのも自由なのは間違いないが、その年齢に見合った小説というのはある気がする。
そこで今後は自分の本棚を対象年齢順に並べるようにしたい。
小中学生のスペースにはファンタジーや冒険小説が並び、次のスペースには夜のピクニックとか学生時代に合わせた小説を置き、その次のスペースで村上春樹は並べたい。
本は強要されて読むものではないが、少なくともいきなり難しく、年齢によっては怖さを覚える文章を読むよりはずっと本が好きになりやすいはずだ。
ここまで書いて自分には子供はおろか結婚もしておらず、彼女もいないことに気づいた。
夏休みの自由研究
小学校2年生の時の話である。
夏休みに都心の科学館に行った(昔のことでもう名前はわからない)
夏休みの宿題で自由研究があったので、針金のモールを使って塩の結晶を作るキットを購入してもらった。
モールは型取りが出来るようになっていて、塩の結晶がついた様々なキャラクターを作ることができる。私が購入したものは半魚人であった。
悪戦苦闘しながら作成した記憶がある。半魚人といってもデフォルメされていて割と可愛く仕上がった。
それを鍋に入れて塩の結晶をモールに付けていく。
それなりの日数がかかったが、中々立派な塩の結晶がついたモールの半魚人が出来上がった。(塩の半魚人とする)
新学期が開始されると、みんなが自由研究を持って学校にやってくる。
塩の半魚人は廊下の壁に飾られるようになった。
中々にその様は優雅で、神々しさまで兼ね備えていた。
廊下に掲示されてからおよそ一週間。
塩の半魚人は、全ての塩の結晶がなくなり、ただの半魚人と化していた。
これは時間の経過で塩の結晶が落ちてしまったとか、溶けてしまったとかそういう話ではない。
あろうことか半魚人は私のクラスメイト達の休み時間のおやつにされたのである。
給食が終わり昼休みになると、遊びから帰ってきた複数の友人が半魚人の前に集まり塩の結晶をポリポリと食べていく。
その様は今思い返すとなんとも凄惨な光景であり、半魚人の血肉ともいえる塩の結晶達が毎日とられていく様は生涯忘れることができないであろう。
新学期が始まってから一ヶ月ほど経ち、自由研究は撤去され、各自自宅に持ち帰ることとなった。
いわば骨だけの状態になってしまった半魚人。
下校中の通学路、私はその半魚人を口に入れ噛み締めた。
塩が染み込んでおり、中々に美味しかった。
ブログを始めるにあたって~「ヤバい」は本当にヤバいのか~
ブログを始めようと思う
思ったことを記録するため。
そして文章を書くことが好きだから。
記念すべき初めての投稿は最近思ったことを。
年配の方は「ヤバい」を使うことに対して、
「最近の若者は語彙力がない!」
とか思うかもしれない。
「あれはヤバかったねー」とかいうお婆ちゃんを私は見たことがない。そういうお婆ちゃんがいても良いと思うけど。
そもそも私は20代で、さらに若い世代はもっと別の言葉を使ってる可能性もあるが、そこは許してほしい。
ある映画を観に行って、物凄く感動したとする。
友人にも是非ともお勧めしたい。
その際に
「いやとにかく映像が綺麗で、〜の演技も最高でね…」
と言われてもそれをまだ観ていない友人には上手く伝わらないと思う。
「とにかくヤバかった」
とか言われる方がまだ気になるんじゃなかろうか。
一緒に友人と同じ映画を観た時はどうだろう。
「あのシーンのあそこが良かったよね。」
さっきよりは良いと思う。友人もそのシーンは観てるのだから。
でも自分の中にとてつもない感動や気持ちの昂りがあった時に、言葉を介してしまうことでどうしても本来の気持ちから劣化するような気がする。
英語の本を翻訳して日本語にしたとして、どんなに翻訳が上手かったとしてもそれはオリジナルではない様に。
さらにいうと作者も自分の考えを文章にする際、どうしてもそこには微妙なズレが生まれるものだと思っている。
それを語彙力がないと言われれば確かにその通りなのだけど、そのズレを非常に少なくできるのはほんの一握りの人しかいないと思う。
そんな時は「ヤバい」を使うこともいいんじゃないか。
もちろん「言葉には言い表せない」とか「筆舌に尽くしがたい」とかもいいのかもしれないけれども。
自分の気持ちの高まりや感動を相手に伝えるという意味では「ヤバい」が一番シンプルでわかりやすい。
なんでもかんでも「ヤバい」と言ってしまうのは良くないと思うが、これをもし読んでくれた方がいれば今後はこれを基に用法用量を守って「ヤバい」をお使いいただきたい。
お爺さんやお婆さんは「ヤバい」時はどうしてるんだろうか…
こんな話は普段の生活では到底同僚や友人に話すことはできない。
だからひっそりと、観る人は1人もいないかもしれないけど、こうやって今後書いていきたいと思う。
そしてここではできる限り「ヤバい」を使わずに自分の気持ちと文章のズレをなくしていきたいと思う。